東京高等裁判所 昭和38年(う)1903号 判決 1968年2月15日
工場雑役 小林音三郎
昭和一〇年一月一一日生
右の者に対する強盗致死被告事件につき昭和三八年二月二六日東京地方裁判所が言い渡した無罪判決に対し検事から適法な控訴の申立があったので当裁判所は検事木村治出席の上審理し次のとおり判決する。
主文
本件控訴を棄却する
理由
本件控訴の趣意は東京地方検察庁検察官検事山本清二郎提出の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は弁護人青柳盛雄、同竹沢哲夫提出の答弁書記載のとおりであるからここにこれを引用する。これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。
控訴の趣意第一点について。
所論は、原判決は、その結論(一)において「領置に係るズボン及びワイシャツなど被告人の身辺に存在した証拠並びに被告人が捜査官及び鑑定人の面前で行った自白などを総合考かくすると、被告人を犯人ではないかと疑えば疑い得るものがあり、殊にズボン、ワイシャツに付着した血痕などに照らすとき、その疑いの程度はかなり高いものといわなければならない。しかし、これらの証拠にはそれぞれその関連する個所で認定したとおりその証明力には限界があり、それ自身独立して決め手となるまでのものではない。そして犯行現場に存在した痕跡(1)、(2)、(3)及び(9)は犯人の残した可能性が一〇〇パーセントとはいえないにしても極めて強く、これ等犯行現場に存在した証拠から推認される犯人像と被告人を犯人と疑う資料となる前記証拠とは前に摘示したとおり直正面から対立しているのであるが、本件には一件証拠を検討してもその矛盾を解消克服して被告人を犯人と断定し得るまでの心証を惹起し得る証拠は一つも存在しない」と説示しているが、原判決が殆んど確定的事実に近いものと認定している犯行現場に存在した履物痕(痕跡(1)、(2)、(3)及び(9))の同一性及びその印象時期乃至はその印象物件の種類についての判断は合理的理由に乏しく、却って、関係の証拠によれば痕跡(1)、(2)、(3)は被害者の姑中島チカの足袋痕で、痕跡(9)は被告人の下駄痕であると認めるのが相当であるから、原判決が、被告人を犯人と認めることを妨げる前提事実として強調する履物痕についての判断は誤りであるというのである。
よって原審記録並びに当審における事実取調の結果につき検討するに、右痕跡(1)、(2)、(3)及び(9)というのは、原判決によれば、「山中検証調書、昭和三六年二月二八日付赤石鑑定書(以下赤石第一鑑定書と略称する)及び松倉鑑定書の各添付写真によると、玄関板の間の被害者の右足下方に四個の足跡とおぼしき痕跡」があり、これを指称する(原判決は、昭和三四年五月一四日付上野鑑定書――上野第二鑑定書と略称する――で痕跡A、八十島鑑定書で痕跡(1)、赤石第一鑑定書で痕跡1、松倉鑑定書で痕跡(1)とされているものを「痕跡(1)」と,上野第二鑑定書で痕跡B、八十島鑑定書で痕跡(2)赤石第一鑑定書で痕跡2、松倉鑑定書で痕跡(2)とされているものを「痕跡(2)」と、八十島鑑定書で痕跡(3)、赤石第一鑑定書で痕跡3、松倉鑑定書で痕跡(3)とされているものを「痕跡(3)」と、上野第二鑑定書で痕跡C、赤石第一鑑定書で痕跡13、松倉鑑定書で痕跡(9)とされているものを「痕跡(9)」と称することとする、となしているから、当裁判所もその用語に従うこととする)のであるが、右痕跡(1)、(2)、(3)につき、赤石英、松倉豊治、上野正吉(但し(3)を除く)、八十島信之助は靴痕であるとし、内田常司、宮内義之介は足袋痕とし、(9)右痕跡につき、赤石英は下駄痕であるとし、上野正吉は靴痕であるとし、松倉豊治は下駄痕とも靴痕とも見得るとし、宮内義之介は下駄痕とは認められず脚立の足か三脚の石突きの跡と推定するとなし、八十島信之助は不明瞭であって推定できないとして居るのである。右鑑定並びに証言はいづれも司法警察員撮影の現場写真に基づいてなされて居るのであるが先づその理由について検討する。
(一)上野正吉作成(昭和三四年五月一四日付右第二)鑑定書並びに《証拠省略》によると、「痕跡(1)はかなりずれているからゆがみがあると考えなければならないが、痕跡(2)は概ねずれがないようにみられる。痕跡(2)の不明瞭な縁を推定して見ると馬蹄形となり長径七糎乃至七・五糎、短径六・五糎乃至七糎であるから靴の踵部の痕跡とみて差支えない。その靴の大きさは全長二七・二糎乃至二九・二糎位で中等大と考えられ、その踵部はゴム製である可能が強いが、ゴム靴か革靴かはわからない。痕跡(2)をセロファン紙に写し痕跡(1)の上に重ねると(1)の下縁は不明瞭となっているので踵の後半部が印象されなかったものとすると大体合致するとして矛盾しない。痕跡(2)の一部と痕跡(9)と重ね合わすことも可能のようである。痕跡(1)(2)の略中央部に類似の印象があるように見られるので、靴の踵の中央に特徴ある型があると想像される。」とし、尚痕跡(1)と(2)との間にある不明瞭な痕跡(D)は靴底の前半部によるものと推測され、死体の右足に最も近い痕跡(E)はかすかに同心弧状の紋理の如くみられるので、踵部の回転運動による痕跡と考えられる、というのである。而して鑑定書添付写真五によると痕跡(1)を踵としDをその前半底部とし、痕跡(9)は痕跡(1)と同方向の踵部の一部とし、痕跡(1)と同(9)を踵とする想定全足跡は重なるものとし、同写真三と五によると痕跡(2)は同(1)と方向を異にして居り、それを踵とした全足跡を想定すれば、右(2)を踵とする足跡は、同(1)或は(9)を踵とする足跡と丁字形をなすと推定しているのである。
(二)八十島信之助作成(昭和三五年四月三〇日付)鑑定書並びに《証拠省略》によると、「踵跡(1)は左側に欠損部分があるのでそれを仮想補充すると長径六・九糎、短径六・七糎位の馬蹄形で、中央部に三糎と二・四糎位の楕円形の模様があり、靴痕であるとして矛盾はなく、踵に隆起部のあるものであれば靴以外の履物によってもそのような痕跡を残す可能はあり、その大きさは中等大である。左側に欠損があるが、外側が磨耗するのが一般であるから左足のものと思われる。その靴はゴム踵のものである。痕跡(2)は不正五角形で中に三糎と二・五糎位の楕円形の模様があり、欠損部分を仮想補充すると長径七糎、短径六・七糎位の馬蹄形であり、後端部外側欠損から右足のものと思われる。痕跡(3)は略々直線とこれに相対する反対側に凸部を向けた弧からなり、その中に三糎と二・四糎位の楕円形の模様があり、やゝ困難ではあるが、欠損部分を仮想補充すると長径六・八糎、短径六・七糎位の馬蹄形であり、後端部外側欠損から左足のものと思われる。右(1)、(2)、(3)は共通点があって同じ靴であるとの可能があり、歩行痕((1)(2)(3)の順)と推定できる。痕跡の仮想中心点によりその距離を計ると右(1)と(2)とは二五糎、(2)と(3)とは二四糎、(1)と(3)とは四八糎位であるが、普通人の歩巾は七、八十糎であるから非常に狭い歩き方である。」とし、尚痕跡(1)と(2)は左右の曲線部が対称でない点が足袋痕と共通点であるが、足袋痕とすれば(一)拇趾と他の四趾が識別出来る(二)織物の特徴が印象される(三)蹠面全部の印象ならば拇趾側に土踏まずの欠損があり、爪先だけの印象ならば後端に特有の曲線を作るのであるから足袋痕とは認められないとし、痕跡(1)と(2)の間に甚だ不規則な形の痕跡が散在して居り、上野鑑定書ではC、D、Eの符号を付しているが、いづれも境界は不明瞭で、一部には回転しつゝずれて印象したと思われる部分が認められるが適確に大きさを推定し得ないとしている。而して、右不規則な形の散在痕跡中「直線状をなす部分」即ち痕跡(9)は痕跡(1)の境界の中直線部と略々一致するとし乍らも、上野鑑定に同調せず、踵の前の縁の筋だけが一本あり足の先の方が全然見えないからこれで確かに靴だろうと推定するのは無理があるというのである。右痕跡間の距離は痕跡の中心点間のそれであるがこれを痕跡の外縁間の距離として換算すると右(1)と(2)の間は一八糎位、(2)と(3)の間は一七糎位となるところ、靴の全長について想定されていないので、試みに上野鑑定によればそれは二七・二糎乃至二九・二糎となるので、踵より先の部分は二〇・三糎乃至二二・三糎位ということとなる。従って、痕跡(1)の全足跡の先端即ち爪先は痕跡(2)の踵の後端より二・三糎乃至四・三糎位前方に出て居り、痕跡(2)の全足跡の先端部即ち爪先は痕跡(3)の踵の後端より三・三糎乃至五・三糎位前方に出て居ることとなるので極めて静かな歩行態度と思われるのである。
(三)赤石英作成(昭和三六年二月二八日付)鑑定書並びに《証拠省略》によると「痕跡(1)は、写真上で下の部分は上少しく左の方向に極く軽く凸彎した曲線をなしており、上の部分は稍ゆがんだ円弧状をなし、左側は大略直線状をなし、右側は右方に極く軽く彎曲している。その辺縁部は左側では細く右側ではより広く下部では右から左に行くに従って狭くなっている。痕跡の中央部後寄りに、上少しく左から、下少しく右の方向を長軸とする楕円形の痕跡があり、左右の円弧を比較すると右側の方が左側よりもその曲率が稍大である。痕跡の前後径は六・七糎、左右径は六・四糎位であるが、本来の形態を仮想すると前後径は七・七糎位と推定され、内部の楕円形は前後径は三・二糎、左右径は二・六糎位である。痕跡後端部は一見すれば不連続であるかの如くに見えるが、仔細に観察すれば左右から極く淡い白色の痕跡が連続していることが認められる。右のような形で然も板の間に少量の土を残こすような物体について考え巡らすと、日常使用或いは見聞するものでは履物の踵以外は考え難い。そして、履物の踵で内部に楕円形のマークがあり、全体として板に比較的よく密着し、かなり明瞭な痕跡を残こすようなものは、日常使用している履物の内ではゴム製の踵であり、靴或いは上履の類が考えられるが、上履が土の上を歩くということは常識的には考え難いしその可能性は少さいから、ゴム踵の靴と考えられる。痕跡の辺縁が左右非対称的であり、その印象の幅に差があるのは、ゴム踵の左半分が磨耗し、その辺縁の隆起が広くなり、より広い痕跡を残したものと推定されるし、内部の楕円形の曲率が左側で小さく、右側で大きいのはこれが為である(宮内鑑定では内部楕円形に線状の紋様があるとし、内田証人は糸目であるというが、踵部の動きによる擦過痕と認むべきである)。」「痕跡(2)は、その全体の形態及び方向並びに内部に楕円形の痕跡を含む点で痕跡(1)と類似して居り、靴のゴム踵によるものと考えられるが、その辺縁は右(1)よりも稍不規則で、内部の形態は更に不規則である。その大きさは長径七・五糎或は八・四糎位と見られるが、辺縁殊にその後端部が不整であって、踵の位置が若干ずれたと考えられ、又左右の側縁は不整であり、内部楕円形の痕跡の中心点からの距離が等しくないことから、左右に或程度のずれがあることも考えられるので、その後端部の本来の線を仮想すると前後径は七・八糎位と推算される。内部楕円形の痕跡の長径は三・四糎、短 径は二・五糎位である。而して、痕跡の内部に見られる痕跡の内比較的まとまった形態のものは楕円形の外にイ・ロ・ハ・ニ・ホの五つである。イ・ロは合致し同じゴム踵によって印象されたものと考えるが、踵の後の部分が磨耗して居り、踵だけで歩いた時の力関係で、磨耗の軽度の部分でイの痕跡を残し、歩行の為に足を移動する際に力が加ってロの痕跡が印象されたことが考えられる。ハ・ニ・ホはその形態からして痕跡(2)とは本来無関係なものと考えられ、ハ、ニとホはその性状が異なる。ハは大略馬蹄形状をなしその内部にも淡い痕跡が認められ、その左上の部分には左下方に走る線状の痕跡が数条認められ、ニの部分はかなり不鮮明ではあるが仔細に見ると左端部は円弧状をなしハの右端部と重合って居り、その大きさは、ハの左右幅は五糎位、ニの左右長は一五糎位である。そのような形態と大きさで、板の上に土を附着した痕跡を残こす物体は、人の素足が最も可能性があり、ハは周辺部まで土が附着している左足踵で印象され、ニの位置に移動したと考えられる。ホの痕跡は濃淡があって不規則であり、その右上の先端はかなり規則的な円弧状をなし左上から右下の幅は二・三糎位であるが実験上普通体格の女性の拇趾の痕跡である可能性が考えられる」「痕跡(3)は、イ、ロの二つの痕跡が部分的に重合って居り、イの形態は痕跡(1)とかなり類似して居るから靴のゴム踵によるものと認められる。イの大きさを概算するに前後径七・七糎位であるが、左右径は不明であり、内部楕円形の痕跡は前後径三・二糎、左右径二・四糎である。ロはイを印象したゴム踵がイの位置で一旦停止し少しく右に向きを変えた際にゴム踵の後端部のみが接触した為に印象されたものと考えられる。」とし、痕跡(1)(2)(3)は形態、大きさが類似して居るから、大きさの等しいか、略等しい同種物体で印象されたものと断じ、「痕跡(1)は踵の左後が磨耗したとすれば適合するような形だからその磨耗の状況からみて左足と考えられ、痕跡(2)は右(1)と略同一方向で約三〇糎前方にあり、痕跡(3)は右(2)の前左方約二四糎のところにあって右前方に方向を変えたと認められるが、いづれもゴム踵によるものと認められるところ、痕跡(2)(3)については磨耗が明瞭でない為に左右の区別は判然と出来ないが、その位置関係からして右(1)(2)(3)は歩行によって印象(尤も片足だけで他方が印象しないように歩くことも考えられる)されたものと考える。そして歩幅は三〇糎或いは二四糎位であるから、極めて小幅な慎重な歩き方であり、しかも踵部の印象のみであるから意識的に踵だけを板面に接触させて歩いたと考えられる。」とし、痕跡(1)が飛散血痕が殆んど乾燥した後に印象されたものと考えられることからして、右(1)(2)(3)の痕跡は本件犯行後に印象されたものであるとしているのである。次に「痕跡(9)は、写真上で下縁Aは略左右方向に直線状をなし長さは約三・六糎あり、その左端はかなり鮮明な円弧状をなして彎曲し、上方に約八糎進んで痕跡(1)の右下角部と重合し、更に右側縁の略中央まで達し、この上下の線の右方には不鮮明な淡い痕跡が略一様に認められる。Bは右Aの上方約二糎のところに下縁と略平行に不鮮明な線状として存し、Cは右Aの延長線の後方約三・五糎のところに径約一・九糎の略円形の痕跡として存し、その周囲には狭い印象欠損が見られ、Dはその後方に接し、右Bの後方に約三・五糎のところにCと同様な痕跡として存する。これらの痕跡は痕跡(1)(2)(3)等と異質なものである。この痕跡にも土が附着しているので履物によって印象されたものと考えられるが、この痕跡は直角方向の二つの辺縁の移行部がかなり鮮明な円弧をなし、内部の痕跡が幅約八糎に亘って殆んど一様であることからみて、一つの隅角が円滑をなし、下面が約八糎或いはそれ以上の長さを有する平面をなして居るものと考えられるし、下方の辺縁部がかなり明瞭な直線状をなしていることから尚かなりよく角度を保っていると推察される。又DはCより若干小さいように見えるが、撮影方向を考慮し煽り焼にして見ると略等しいものと考えられる。而して、Aの延長線からCの中心点までの距離と、BからDの中心点までの距離は共に三・五糎位で相等しく、AとBの距離は約二糎であることからして、AとCを印象した物体が後方に約二糎移動してBとDを印象したと考えられる。このような痕跡を残す履物は「のめり下駄」或いはかなり磨耗し面の部分の先端部がかなり広く斜めに磨耗し、のめり下駄と類似したものと考えられ、A、Bは下駄の前の部分で、C、Dは鼻紐の穴である。その下駄の大きさは、Cの円形痕跡の中心点から左側縁までが約五・五糎であるからその幅は約一一糎と推定され、市販の下駄について調査すればその全長は二六・四糎乃至二八・六糎となるので、特大型と推察される」とし、痕跡(1)と同(9)とは部分的に重なっているが、右(1)は乾いた血痕の上に印象されて居り、右(9)の痕跡の内部にはイ乃至リの約九ケの血痕があるところ、そのイは踏み潰されて居るので、殆んど全く液状のときに踏み潰したか、或はそのような血液の附着したものによって印象されたと認められ、ロ・ニ・ホは押し潰されていないから血液飛散前に印象されたもの、ハは印象がやや不鮮明で押し潰されたような状態で、上少しく左方に連続した痕跡があるから、ハの位置にあった液状の血痕が押し潰された後上少しく左の方向に擦過されたものと考えられ、ヘ・ト・チ・リは線状或いは点状であるがその性状から見て物体に附着した血液が印象されたと考えられるから、痕跡(1)より以前に同(9)が印象されたものであるとする。而して、痕跡(1)(2)(3)と同種のゴム靴踵の痕跡と認められるものとして、板の間の玄関からの上り框の次の板の左側で被害者の右上腕の指向方向に略一致し、多数の飛散血痕中にあるもの(19、写真三一)、玄関のタタキ上にあるもの四個(28、29、30、31、写真三六)を挙げ、「19は写真三一には写っているが写真三二、三三には写っていないから人為的に消されたものと認められるが、関係写真を検討するに犯行時から存したものではなく、撮影直前に現場に立入った者が残したものであってそれを人為的に消されたものと思われる。19は形態及び大きさを正しく知ることは不可能であるが、その凡その形態及び大きさから見て、靴のゴム踵のように見られる。その左の部分が円弧状をなしていないのは痕跡(2)と同様に左後の部分が磨耗しているものと考えられ、右後の部分は上り框の木とその次の板が同一平面をなしていないと考えれば矛盾はなく、この痕跡の内部には下鮮明ながら略楕円形の痕跡がみられることからも痕跡(1)(2)(3)と同種のものと推察される」とし、右28は左靴の蹠部(底面全般)、31は右靴の蹠部、29は右靴の踵、30は左靴の踵と考えられ、蹠部もゴム製と考えられるから、一連の歩行痕として矛盾はなく、19は左後が磨耗していることから左靴の踵と考えられるが、右靴の踵部と見られる31の近くにあるから、19は28乃至31と一連のものと考えられるので、痕跡(1)、(2)、(3)は被害者より便所寄りのところで中断しているが、右19、28、29、30と共に一連の歩行痕をなすと推定し得るとするのである。従って、痕跡(9)は血液の飛散した直後に印象され、その後も血液がその痕跡の上に飛散したものであり、痕跡(1)、(2)、(3)は飛散血液が乾いた後に印象されたものであるということとなるのである。而して更に、「被害者の右足の右方三畳寄りにある痕跡5は、イよりロ・ハ・ニの三方向に向って居り、イは略同心円状、ロはイから連続しその先端は足趾状の分岐した突起をなし、ハはイ・ロの部分と略連続しその先端はロの突起より稍大きいので、人間の左足である可能性が考えられるが、印象面から蹠面が土で汚れた左素足で、イを基点としロ・ハ・ニへと回転した回転痕と思われるところ、土踏まずが現われているから偏平足の者ではなく、その大きさからして被害者の左足によるものと考えられる。尚この痕跡には足紋が見られないが、実験上は足が土で汚れて居るときは足紋は印象されなかったのである。回転痕の右方に亜鈴状の飛散血痕が二ケあるが、変形や擦過跡がないから、痕跡の後に飛散したものと認められる。」とし、「痕跡(1)の位置に略一致する(宮内鑑定は全く一致するというがそれは誤りである)ところにある痕跡14は現場を清拭する前の写真にはなく、清拭後の写真に存するのであるから、清拭の際又は清拭の後に印象されたものと認むべく、その印象物体は直感的にも、実験的にも右足袋の前の部分であるとしか考えられないが、その時の印象者の姿勢は、極端な爪立ちや普通の歩行ではなく、清拭の際にする踵を上げた姿勢と考えられる。」とし、「被害者足下の貯溜血液の右側に存する痕跡は、同心円状の痕跡であり、靴底の一部によるものとも見られるが、結局不定形であって何によって生じたか不明である。」とし、「被害者足下で5に接して存する痕跡12は、右素足により印象されたと認められる4の内部にあり、4とは別個の痕跡と認められ、そのイは拇趾、ロは第二指以下、ハは足蹠の前の部分と見て矛盾はなく、イ、ロ、ハ相互の痕跡間の欠損状態をみれば、足袋をはいた右足の前の部分の印象と推察してよい。」というのである。
(四) 松倉豊治作成(昭和三七年四月三〇日付)鑑定書並びに≪証拠省略≫によると「痕跡(1)は、上縁より右縁にかけて緩いカーブを描いた類馬蹄形でその中央やや上に類楕円形の痕跡が印せられて居り、その上下径は五・五糎、左右径は六糎位で、類楕円形の大きさは上下径二・六糎、左右径二・三糎である。痕跡(2)は、一見して類五角形に見えるか、よく見ると上縁は弧状をなし、左右が略々直線、下縁が緩いカーブをなした類馬蹄形のもので、略々中央部に類楕円形の模様があり、大きさは上下径八糎、左右径七・五糎位、類楕円形の大きさは上下径三・二糎、左右径二・五糎位である。痕跡は、その主要部分は上縁が弧状をなした類馬蹄形で、左縁の下半分は不明であり、上縁より右縁に至るカーブは左縁に至るカーブより曲り方が幾分強く、下縁の右端は少しく右上に傾斜している。その略々中心部に類楕円形があり中心線より左によっている。痕跡の上縁より左上にかけて之に重った別の痕跡の小部分があり、その左下に数条の横走する鈍線状条痕があるから、右主要部分から、印象体が少し左方にずれた為の痕跡と認められる。その大きさは上下径七糎、左右径六・三糎、類楕円形の大きさは上下径二・九糎、左右径二・二糎位である。即ち、痕跡(1)はやや横に平たく、同(2)は上下に長く、同(3)も上下に長いが右(1)に近く、中央部の楕円形の径は右(1)と(3)が略々一致し、その傾斜の度合からしても右(1)と(3)は略々似ている。以上の条件を持ち、現場写真上に見られるものは、歩行時の履物痕で、靴又は靴様の履物とするのが妥当であり、実例的に見れば靴の跟部の痕跡とすれば矛盾はないし、板材の木目がかなり出ていると思われる床面にこの程度に明かな痕跡を残している点から見てゴム製の跟部であろうと思われるし、痕跡内の類楕円形は跟部の模様であると思われる。痕跡(1)と(2)の前方(写真の下方)には蹠部の一部と見られるかも知れないと思われるものもあるが、それを認めないとすれば、跟部のみで歩いたか或いは蹠部が硬い革である為に土砂のつき方が少くて蹠部が印象されなかったと思われる。痕跡(1)と(3)は大きさや内部の楕円形部分が似ているのでいづれも左側の靴によるもの、同(2)は右側の靴によるものと見られるが、左と右では靴の跟の減り方に差があるとして矛盾はなく、右(1)と(2)との間隔は二四糎、右(2)と(3)の間隔は約二二・四糎であるから、比較的徐々になるべく跟で歩く様に注意して歩いたものの痕跡と思われ、その大きさは全長約二六糎乃至二八糎位と推定される。」「痕跡(9)は、同(1)の右下にあり、下辺の長さは約五糎、左辺は約三糎で痕跡(1)の下縁に達して居りその上は同(1)の中に入って居り、同(1)の右辺の緩い彎曲部から右方に下辺と平行して長さ約二糎の薄い線状の痕跡があるから結局の形をなしていると認められる。この両平行線の間隔は約六糎あり、その下辺と左辺との角は緩いカーブをなし略々九〇度である。下辺の上方約一・七糎を隔てて之に平行して長さ約四糎の細い線状痕がありその中程やや上に径約二糎及び一・五糎の相接した類円形の痕跡が続いているように見える。痕跡の下辺部には土砂が附着した形状が明らかであるから、履物によるものと推定できるので「ノメリ下駄」の痕跡とする可能性もあるが、右痕跡中の円形部分は左程明確でないから、のようなものの左半分とも見られるのであり、そう見れば各辺の大きさからして靴の跟部の一部が板に対し横に印せられたとも見られるのである」とするのである。而して更に、痕跡(1)と(2)の間にある痕跡4及び4'について、「4は写真上(写真九)略々同心円形の条痕より成る円形部でその境界部は不明瞭で、上下径は約五糎、その中央部に径一・五糎位の円形部分(これは抜けている部分と認められ、足袋や素足では生じない)あり、円の左側上部及び右側にもやや之に連る短弧状部があるが、その大きさを定め難い。この痕跡が何であるか積極的に判定すべき根拠は得難いが、その形状、周辺の痕跡との関連において考えると、靴の跟部又は蹠部の回転によって生じたとして差支ない。4の右方にある痕跡10は何によるものか定め難いが、4を跟の回転痕とすれば、右方に向いた時の蹠部の一部と見ても矛盾はない。更らに右痕跡の右に痕跡4があり、その境界は不鮮明であるがその左辺の長さは約八・五糎あり靴の蹠部とも見得るのである。従って、4を靴の跟部の回転痕、4'をその蹠部と見ても差支ない。4について、赤石鑑定は素足痕とするが、足紋はなく、堅いものが回転した痕跡であり、その中心部に痕跡のぬけた円形部分が見られるし、その大きさ等からして素足痕とは認められない。その回転痕を印したものはゴム底と断定は出来ないし、痕跡(1)を印したものと同一かどうかもわからないが、同じものであっても差支ない。」というのである。次に痕跡(1)のあった位置にある痕跡につき、「その大きさは上下約六糎、左右約一〇糎で、その左側の類楕円形の部は略々二・四×一・四糎大で、その境界は不明瞭でボヤケた形であり、その右側部分は一層その境界が不明瞭である。赤石鑑定は爪先の足袋痕というが、(一)その位置と輪廓、斑痕の方向等が痕跡(1)に略々一致していること(二)痕跡(1)を拭きとるとすればこの痕跡の範囲程度になり得ること並びに中の方で左右に擦過したような部分があり、右外側で左上から右下斜めに擦過痕があること(三)足袋痕としても他に類似の痕跡がないこと(四)痕跡(1)のあったところに偶然に足袋痕が全く同じ位置(赤石鑑定では同じ位置でないというが同調し難い)に印せられたとしては余りにも一致し過ぎること、等から見て、これは痕跡(1)を拭きとった後と見るのが妥当である。」とし、又「玄関框から二枚目板の左側に存する痕跡は跡痕(2)と類似して居り、全体の形並びにその中に類楕円形の模様の見えること等及びその大きさから見て前記靴痕と同種の靴の痕跡と見られる。」「玄関タタキに若干の痕跡があり赤石鑑定の如く(1)は若干の血液のついた素足痕、(2)(3)(6)(7)等は靴痕と見ればみられないこともないが、これらはいづれもその境界の不明瞭なもので、検討し得る程度にまとまったものとはいい難く且つその多くはどこからどこまでを一つの斑痕としてまとめてよいかも明かではなく、仮りに一つの斑痕として取上げても少しく見方を変えると又異った斑痕としての形にもなるという様な程度にしか現われていないし、殊にタタキの如き粗面で凹凸のあるものでは本来のその面の不規則さから写真上で一つの像を呈するということもあるから、この程度の写真のみで判断する事は却って誤りを来す危険もあると思われるので、仮にそう見れば見えないこともない様なものが写真上にあると判定し得るに止まる。」「被害者足下の流血のそばにある痕跡には、二個の痕跡が重って居り、その大きさ等からして痕跡(1)(2)(3)と同様な靴の跟部のものとみて差支ない。」「被害者の足下の血液中にある痕跡について、赤石鑑定では、二個の別種の痕跡が重ってあるとし、その一つは素足痕で、他は足袋痕であるとする。その素足痕であるとする点には同調するが、足袋痕とする点については認め難い。即ち、赤石鑑定が足袋痕と分離した部分は、その様に区劃すればその様にも見得るという程度であって、しかく境界の明確なものではなく、却って一個と見得るのである。そうすると血液による陰性足痕として生ずる可能性のある部位でありその中に濃く見える部分は足蹠に見られる溝状部或は若干の凹みに該当するとしても矛盾はないのである」というのである。
(五) 内田常司の証言によると、「痕跡(1)・(2)・(3)はその後部即ち写真の上部が割れて居り、その内部に丸い形があるがそれは横条に走る棒状のものの寄り集りで形成され、丸い形の中に鈎状のものが平行するような形で形成して、割れている方に進んで居るが、その丸い部分は足袋の裏底と上部の縫付の位置の状態である。又痕跡(1)の中の楕円形の周辺を形成しているものは大方のものは糸痕によって形成されて居り、その他にも糸痕が認められる。従って右(1)・(2)・(3)は足袋痕であり、(1)は右足爪先部、(2)は左足爪先部で初に印象した後拇指を中心として二〇粍位右側に回転したもの、は左足爪先部を丸めたものと認める」とし、更に八十島鑑定で痕跡4としたものについて、「その回転痕には、回転が停止された部分に足紋が認められるから素足痕である」とし、これを証明する為に足型による足袋痕の印象実験をしたところ、痕跡(1)・(2)・(3)と同様の痕跡を印象し得たというのである。
(六) 宮内義之介作成(昭和四一年八月二日付)鑑定書並びに≪証拠省略≫によると、「痕跡(1)は、歪みを矯正した写真によれば左右径六・五糎、上下径六・六糎で、縦にならぶ楕円形の下三分の一が欠けたような形態を示し、その上方部に長径三糎、短径二・五糎の楕円の紋様があり、痕跡には濃淡があり、外周は境界がなだらかな線でなく繊細なギザギザをなし、特に左側より下辺にかけて著しく、上方より右方にかけて境界が次第にボケて不鮮明である。写真上から仮定的なものを除き板の凹凸などを考慮して痕跡を模写するに、(ヘ)(ロ)の先端と(ニ)の右端或いは(イ)(即ち写真上部)とは連続せず、その間から(イ)が上方に向って線状に突出しているのが特徴的であり、(ロ)、(ハ)、(ニ)も線状を呈し、その中に小型の線状の紋様が大体右上より左下に向って走っている。これが何によって形成されたかは実験によって推定する以外に方法がないので、種々の実験をなしたが、足袋底の先端付近、先端左右両側、イセ部、土踏まず付近などに泥土を付着させて廊下を歩かせたところ痕跡(1)とかなり類似した印象像が出来た。右(1)の明瞭な部分は左右径六・五糎、上下径六・六糎であるが右下方の不明瞭な部分を考慮して計測すると左右径七糎、上下径七・五糎となるが、女物足袋(二二糎)で印象された前蹠部の痕跡は左右径七糎乃至八・五糎、上下径八糎位となるので、左右径において痕跡(1)とほぼ一致して居り、綾織底の足袋によると左右にかかわらず右上より左下に向って短線状の痕跡を形成し、痕跡(1)と類似する。(チ)、(ホ)を結ぶ線(写真上の下部)は少しく上方に突出して彎曲し境界が明瞭でない為に靴の跟の前端と考えられているが、実験上は足袋痕のそれと一致し(チ)付近(写真上の右方)は(ホ)付近(同左方)よりも右下方に少しく伸びて居り、足袋痕の特徴を具えて居り、靴の跟としては少しく非対称的であるが、左側は第一趾、右側は第二趾より第五趾にいたる部分と考えて矛盾はなく、非対称的であっても構わないのである。楕円形の目の上端は開放して居り、その部分を通じて上方に(イ)線があり、これは第一趾側のイセ部(足袋の足指の股の部分の底の方から見た表地の細長い部分)と考えられるが、実験上でも類似のものが得られたし、右の目に類似した紋様も実験上得られた靴底は足袋底に比して厚くて硬く、伸縮性も屈曲性も乏しいのでどの様に歩行してもその底面に付着している泥の性状と底面固有の紋様に左右され、その像は単純でやや粗雑であるから、痕跡(1)のような形状の痕跡を形成する為にはそれと同様な紋様の靴底が必要であるので調査したが、そのような靴底は発見出来なかった」「痕跡(2)は、大きさは約八・五糎と八・五糎で、ピントが外れていて不鮮明であり、その中のこまかい紋様や濃淡は明らかでないが、全体としては五角形をなして居る。而して、紋様の複雑さは板自身の木目に由来した部分もあり、(ハ)付近(写真左上方)の紋様はその左方から走って来た二条の平行線の影響を受けているものと推定されるので、これを考慮して原形を考えると比較的簡単な形態に修正される。その中央より右上寄りに楕円形の目が認められるが、その部分の板の木目に凹凸著しく、直線状の縦の線が平行していてその部分の読みが困難である為に、開放しているとも、閉鎖しているとも見られるし、実験上の足袋痕とも、靴の跟痕ともとれ、大きさの点でも矛盾はないが、(ロ)の上端(写真右上方)の形態が右足袋痕に類似して居り、痕跡(2)の外側輪郭に靴の跟の特徴が現われていないので、左側足袋痕と考える」「痕跡(3)は、ピントがはづれていて不鮮明で内部のこまかい紋様や濃淡は明らかでないが、境界は比較的明瞭であって、その大きさは大約九糎径と七・五糎径である。この輪郭は上部より左方に順次(イ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)の線よりなり、中央に目の(ロ)があり、目の上端は開口したような形状となって(イ)の方向を指している。(イ)と(ロ)の上端との関係を見るに、(ハ)より発した輪郭は右方(ヘ)に向ってなだらかな曲線を画きつつ進むが、(イ)の辺りで不明瞭となり少しく凹む気配を示し、次に(ヘ)に向って再び曲線を示している。赤石鑑定では同じ跟が二度印象されたとして居り、内田技官は(イ)の部は足袋のつま先の割目に相当しているとして居るが、全体の輪郭、目の形態と上方へ開口して居ること、(イ)の部の存在からして足袋のつま先付近の痕跡と考える」「痕跡(9)は、痕跡(1)の右下に左右に走る直線状のもので、その上方に続く淡い痕跡と共に一つの痕跡をなして居り、赤石鑑定ではノメリ下駄痕で上部に鼻緒の孔があるとし、松倉鑑定では靴の跟としている。しかし、種々検査しても下駄痕と判定出来る程度のものとは思われないし、鼻緒の孔と称する部分はそれらしいものが見られるが板の固有の濃淡であるか写真のネガの性状に由来するものか、その区別も困難である。従ってここでは長さ三・五糎位の直線状の痕跡にして左方に行くに従って幅広くなっていると解したいが、この様な痕跡を形成する器物は多数あってそれを推定することは困難であるが、事件の経過などからして、鑑識課員の写真撮影用の脚立の足か三脚の石突きなどのようなものではないかと推定される」としている。而して、被害者を処理し清拭した後に撮影した写真上で痕跡(1)に相当するところに存する不明瞭な痕跡について、「赤石鑑定では右(1)とは別個なもので清拭するときに印象された足袋痕とし、松倉鑑定では右(1)の清拭後も残っていた痕跡であるとして居るが、その大きさは左右径七・五糎、上下径八糎位であり、その位置は板の節、木目の模様からして痕跡(1)と全く同一であり、小楕円形の位置とその開口部の方向も同様であるから、右清拭後の痕跡は痕跡(1)の清拭後に残存したものと思われるし、清拭後の残存痕跡については実験上も認められるのである。右残存痕跡と痕跡(1)の外形、大きさ、位置は完全に合致する。その細部の紋様や輪郭は変化して居るが、これは足蹠の凹凸に従って捺印された足袋の痕跡に一致し、強く圧迫された痕跡部は軽い清拭によって消去し難いが、それ以外の痕跡部は容易に消去されることは実験上明らかであり、その目の部分が足袋の指股の形状に近くなっていて、先端は明らかに開口したことが認められる。従って、痕跡(1)が足袋痕であることの可能は大である」として居る。次に、痕跡(1)の左下で、被害者の右足に接して存在する短径約五・七糎(跟部)長径八・五糎以上(上部は血痕と合一して計測不能)の痕跡4は全体としての形態は跟部を中心として廻転した後に印象されたものと推定されるが、内田技官は裸足痕で隆線があるとし(但し隆線との確かな裏付けはない)赤石鑑定は左裸足痕であるとし(但し裸足であることの証明は充分でない)上野、松倉鑑定はいづれも靴の跟痕であるとし(但しその証明は充分でない)ている。靴の跟痕であるとすれば跟痕とつま先部とは完全に離れていなければならぬのに跟部から血痕部まで連続して居り靴底の硬い革或いは平面的な合成ゴム底では右痕跡のような美しい回転痕は形成し得ないことは実験上明らかであるから靴跟痕とは認められない。右跟部の回転痕にはその紋様の中に同心円を画くシマ模様がありその左下端線には左右に走る短線状の織目様の紋様が現われて居る(内田技官は紋様を足蹠の隆線であるとし、他の鑑定人は紋様はないという)。実験上、足袋の跟と裸足の跟で回転した場合には、回転した同心円状擦過痕の上に最後に印象された非回転痕跡は二重に捺印されることが判明し、足袋によるときは回転痕と非回転痕とが認められ、裸足の場合は回転痕のみが強く認められるのである。右痕跡は、跟部を中心とした回転痕とその左下方に短線状排列の非回転痕が存すること、裸足痕と違ってなだらかでないこと、織目らしいものが見られること、跟部の痕跡の大きさが裸足痕の範囲になく、女性足袋痕の範囲にあることからして、右痕跡は女性の足袋痕と考えられるとしている。而して、その総括意見として、痕跡(1)と(1)は同一痕跡で、女性の右足袋(綾織)の爪先によるもの、同(4)は女性の足袋によるもので綾織底の左側と推定され、同(2)と(3)は独立しては判別困難であるが、右(1)との共通点を有し足袋痕とも考えられる特徴が少し見えるので、右(2)は女性の左足袋の爪先によるもの、右(3)は女性の右足袋の爪先によるものと推定され、痕跡(4)は左足と認められる。以上の痕跡を関連させて考察すると、足袋をはいた女性が爪先立ちとなって歩き(3)(2)(1)の順に痕跡を形成し(4)において足蹠全面を廊下におき少しく回転したこととなると推定しているのである。
右鑑定並びに証言について検討するに、夫々その分野での学識経験者であるに拘らず、結論を同じくする場合でもその理由づけが異なり、或痕跡について意見を同じくしても他の痕跡については結論を異にする等各人各様といって差支ない程に区々である。これは本件痕跡が不鮮明である上に、その痕跡を写真に撮影或はゼラチン紙に採取したものによる観察であって、その写真等が痕跡をそのまま顕出して居るとは認められないことにより、多分に観察者の主観的判断が加っている為と思われるのであり、このことは赤石、松倉、宮内鑑定人が指摘して居るところである。従って痕跡をどのような形態のものと把握するかによって、その後の検査、判断に差異を生ずるという不安定さを内包して居るのであるから、かかる痕跡によりその印象物体を判断することには多くの困難があり、余り期待し得なかったところであるともいい得るのである。上野、八十島、赤石、松倉鑑定には多分に経験的な主観的判断が加味されて居ると認められるが、赤石鑑定人が述べる如くその主観の裏付となるものが科学的に承認されるものであれば、その主観は充分に信頼し得るのであろうが、本件においてはその点について納得し得る充分な説明がなされていないのであり、右四鑑定人の結論に喰違いがあることからしても科学的な承認ということについて充分に納得し難いところである。赤石鑑定人は内田証人が本件痕跡と同じ痕跡を形成する足型を想定して実験したことを非科学的と非難するが、その方法自体は実証的方法として科学的に充分承認されるところであって、問題はその足型を実在し得る人の足の型と断定したところにあるというべきであろう。赤石鑑定人はその足型と同一の形態の足を持つ人が実在し得るとの証明がなされない限り、内田証人の結論は非科学的であり、(1)(2)(3)の痕跡が人の足により形成されたものと断定し難い趣旨のことを云っているが、問題は内田証人の作った足型と同一の足を持つ人が実在するか否かということではなく、人の足で(1)(2)(3)の痕跡を作り得るか否かにあるのであるから、右内田証人の足型と同一の形を持つ人が実在するかどうかということではなく、同一でなくとも右足型に類似の形をとり得る人の存否を考うべきであって、一概に内田証言を非科学的と非難するのは当らない。果せるかな当審の宮内鑑定人はこの点について仮定の足型を用いず、すべて実在の人足と足袋を用いて実験を重ねつつ痕跡を形成した物体を追及して内田証人と同様の結論に達しているのであり、その説明を読了して一応納得し得ると認められるのである。このように検討すると、本件の痕跡については内田証人の証言と宮内鑑定とを併せこれに従って判定すべきものとの結論に到達するのである。しかし乍ら、本件の痕跡が不明瞭なものであり、写真等を介しての検討であることを考慮すれば、右両名の結論といえども絶対に誤のない確実なものとしては受入れ難いといわねばならない。而して、痕跡について検討したところは、痕跡と共に存在している血痕についても妥当するところである。即ち八十島信之助は鑑定書にて、「痕跡(1)の境界上と(2)の間に存する不規則な形の痕跡(痕跡(9)を含む)の中には明らかに飛散した血痕と思われる形の痕跡が重なって居り、北野報告書ではその多くは「血痕を踏みつぶした跡」と表示されて居るが、実験上板の上に飛散した血液は三〇分内外後には乾固し圧迫又は擦過によって変形しないことがわかった。北野報告書によれば現場に足袋で入った者は中島チカだけであり、同人は出血推定時刻より五時間位後に入って居るというのであるから、中島チカの足袋によるものではなく、従って現場の痕跡は足袋痕ではない」とし、証言にて、「北野報告書で血痕を踏みつぶした跡と表示したものは私の鑑定書で痕跡(1)と表示したもの(痕跡(1))と合わさる部分があり、鑑定書添付写真六(前記不規則痕跡部分)に見られる明瞭な二滴位の血痕は写真上の印象では痕跡が先に印象されてその後に血液が飛散したと思う。血液が凝固した後にその上で回転運動をしても形は崩れないからそのようであったと見ることも出来るのであろうが、回転痕と認められるものは微細な筋から成立っているが、血痕の上にはその筋が認められないし、北野報告書でも踏みつぶしたものと表示していないので、同人もそのように確信を得られなかったものと思うので、回転痕が先であると思う。又北野報告書で踏みつぶしたものと認めた部分はそれを信頼してよいと思う。」とし、赤石英は、「痕跡(1)の左下角の左上約一・六糎のところに、この痕跡の辺縁に略直角の位置に全長約一・三糎、最大幅約〇・二糎の亜鈴状の黒色の斑点が一ケ認められ、現場の他の類似のものから見て飛散血痕と認められるところ、北野報告書では、「踏みつぶした跡」と表現されて居るが、亜鈴状の形態がくずれていないのでそのようには認め難く、その細い部分は稍白く汚れて居り、太い部分の略中央部にも小さい白点がみられるので、その汚染は痕跡(1)の辺縁によるものであることは明らかであるから、血痕が殆んど完全に乾燥した後に土のついた靴のゴムで踏みつけたものと認められる。痕跡5の内部の中心点の左側に(ホ)、右前の周辺部(ヘ)に亜鈴状の飛散血痕が一ケづつ存在しているが、素足の踵の廻転痕と考えられる著明な痕跡の中にあり乍ら表面は平滑で廻転による変形や擦過がないから、痕跡の後に血跡が飛散したと認められる。痕跡(9)の内部には約九ケの血痕があるが、その内(イ)は踏み潰されたもの、(ロ)(ニ)(ホ)は押し潰されていないもの、(ハ)は押し潰されて左の方に擦過されたもの、(ヘ)(ト)(チ)(リ)は物体に附着した血液が印象されたものである。」とし、松倉豊治は、「痕跡(1)の左側に血痕があるが、それは感嘆符状になって居り、主たる部分の上に白い灰色の印影があるところから、飛沫血痕の上に何かが加ったと見るべきであり、血痕が先で、痕跡が後であると思う。北野報告書では右血痕は踏み潰したものとあるが、写真によって観察した場合には微細な点で問題があると思うが、踏んだとは云えるが踏み潰したものとは云えぬと思う。痕跡4の下に感嘆符状の血痕があるが、その主たる部分と先の点状に移行する部分に他の痕跡即ち履物の跡がのつかって居るように印影が薄くなって居り、上の方の血痕の細く移行する部分にも、主たる部分にも右のような箇所があり、左の方の痕跡の限界の所の二ケの血痕にも同様の部分が見られるので血痕が先で痕跡が後だと思う。何となれば血液が乾くとその下にある痕跡が血液の層を通して写真上に浮ぶということはないからである。血液は生理学的には一五分乃至二〇分で乾燥するということは常識である。」というのであって観察者によって、痕跡と血跡との前後を異にして居るのである。これも、現物を離れた写真上の観察であることに主たる原因があると思われるのである。して見れば、痕跡の印象時期が血液飛散の前であるか後であるかは、然く明瞭なものではないと認むべきである。
即ち、右痕跡(1)・(2)・(3)は女性の足袋痕であるとの可能性が高いがこれとても決定的なものとはいい難く、女性の足袋痕であるとしても本件の犯人が男性であるとの確証がないのであるから、それを犯人の足跡ではないとはいい得ないところであり、その足跡の印象時期も前記の如く確認し難いのであって、この痕跡をもって犯人を探知する重要資料とはなし難いのである。尤も≪証拠省略≫によれば、痕跡(1)・(2)・(3)は中島チカの足袋痕ではないかと思われる点もあるが、これとても確実にそれを証明し得たとは認められないのである。更らに痕跡(9)については、全く見解が分かれていて何れとも決し難く、検察官主張の如く被告人の下駄痕であることは到底認められない。従って、痕跡(1)・(2)・(3)・(9)を靴痕であるとし、これを犯人のものである疑いは濃厚であるとした原判決はその点において事実を誤認したものというべきである。
控訴の趣意第二点について。
所論は、原判決は、被告人の自白について、被告人は公判廷において警察官や検事が責めたので自白した旨供述して居るが、具体的事情について何等述べない為に供述によってその真相の究明は殆んど不可能であり、被告人の全自白調書は取調担当の警察官や検事の証言、取調状況を収録した録音テープ並びに精神鑑定書中被告人の供述部分等によって検討すべきであるが、それによれば、その自白の任意性については疑いを差し挾む余地は存しないとし乍ら、その信憑性の検討については極めて慎重な態度をとり、次のような理由によってこれを否定したのである。即ち(一)精神鑑定の結果によると被告人には被影響性乃至被暗示性及び空想性虚言癖傾向は見出せず、その知能程度からみても犯行事実の如き系統的な物語を作り上げたり、第三者が教えこみ且つこれを記憶させておくことは困難であるという結論に到達しており、この結論は被告人の知能程度などに照らし確かに傾聴すべき見解ではあるが、被告人が腹の大きいおばさんにぶっつかったとか、そのおばさんと問答した後椎の実を拾って帰ったとか供述しているところは事実に反していて作り話と認められるから、「系統的な物語を作り上げることは困難である」「空想性虚言癖傾向を見い出せない」という点は全面的に採用することに躊躇を禁じ得ない。(二)被告人は日常身近に体験する現実的な知識は存在しその記憶も比較的よく保有されていると考えられるから、短期間に繰り返し同じ犯罪事実を聞かされる機会があったとすれば、それが屡々出入して事情のわかって居る細川邸内の出来事であることも手伝って、「身近に体験する現実的な知識」という範疇に極めて近くなり、被影響性乃至被暗示性の有無にかかってこないこともあり得ると考えられるが、捜査官は意識的に犯罪事実を憶えこませたということは全く認められないが、捜査の過程を検討すれば被告人がその間において犯罪事実を憶えこむ機会があったと認められ、その供述内容からしても他人から聞いた話を自分のこととして供述する可能性が全くないとは断言できないのであるから、右鑑定の結論である「被影響性、被暗示性は存しない」との部分は採用したとしても、余りに固執することは相当でない。(三)本件公判係属中殊に公判で犯行を否定しているさ中、医師の面前で自白したことは供述の信憑性を増強する情況証拠ではあるが、それは捜査官が繰り返し供述を求め、被告人が繰り返し応答した後になされたものと認められるから、日常身近で現実に体験した事柄という範疇に極めて近くなると考えられ、当初の段階における取調の態様及び被告人の知能程度から自白の信憑性に疑問を差挾む余地があるとも考え得るので、その自供が医師の面前という誘導・暗示のあり得ない状況で、しかも捜査時より約二年十ヶ月も経過した時期になされたということに余りとらわれることは相当ではない。被告人の捜査官に対する自白はその大部分が客観的事実に合致し且つ終始一貫しているのみならず、有力な他の証拠と相互に補強し合っている点からこれを考察すれば、外形的にはその信憑性は高いといわなければならないが、(イ)被害者の足下附近の板の間にあった痕跡(1)・(2)(3)・及び(9)の靴痕は犯人によって印せられたものと認め得る可能性が極めて高いが、被告人は常時下駄を履いていたと認められること、(ロ)被告人は物品記銘テストにおいて多くのものを忘失するという成績であるから、短時間に他人の家で金銭目当ての物色中或いは人を殺害した直後という異常な精神状態の下で一回的に見ただけの二十点に近い物品をよく記銘し得たかについては疑問なきを得ない、(ハ)本件兇行に使用したというナイフの事後処理に関する点につき被告人の供述は一貫せず動揺しているが、これは捜査の推移を併せ考えると、ナイフに関する自供の変化は軽々に看過できない、(ニ)本件ズボン及びワイシャツの血痕の点について、被害者を刺したときに少し血が飛んだという供述は捜査官が既に探知していたところに基づいてかかる供述を引出すことは比較的容易な事柄であると考えられるし、被告人の腕の傷やズボンの破れ目について、トタンの破れ目から飛び降りたときに腕に怪我をし、ズボンに鍵裂を作ったとの供述は被告人が屡々細川邸内に右トタンの破れ目から入っていたこと、時間の観念に乏しいことを考えると兇行発生当日のことであったというのではなく、その頃これと類似の事態があったとも推察されるのであるから、外形的な信憑性を重視し得ない、というのである。
しかし乍ら、(一)本件捜査の初期においては細川邸への出入状況などをきき、ついで当日の行動等につき逐次取調を進めたものと認められるのであるが、被告人は発問者の要求する範囲の答を連続して全部供述することは困難であり発問者があいの手を入れたり、脱落部分の問を繰り返さなければ次の供述を引き出せない状態であり、又被告人は諒解判断が極めて悪く、詞語失格を有する為に答が聞きとりにくいような状態であるから、事件の本筋に関する供述を得るまでには可成りの時間を要することは当然である。してみれば、自白する迄の供述はいわゆる否認というのではなく、事件の核心にふれる供述に達するまでにその周辺を低回する未完成な供述であったと見るのが相当であり、積極的に作り話をして犯行を否認するという意図から嘘を言ったものとは認められない。従って、原判決が挙示した点の供述は被告人が日常身近に体験した事実を述べたものであるが、時間的観念がない為に別の機会の体験事実を混入している部分もあるかも知れないとは言い得ても、供述内容は決して自己の体験事実から遊離したものとは認められないのであるから、初期の供述をその後の自白と対比して二者択一の立場からその一方を真実とし他を作り話であると断じ、そのことから鑑定の結論に疑問があるとするのは皮相な見解である。(二)菅又鑑定は、事実体験しないことをこれ程詳細にしかも常に変らず供述できる人間は相当の特異な人格に於いてのみ発見される症状に過ぎないが、本人についてはこのような傾向は勿論認められないとし、捜査官の暗示によって作り上げられることは不可能であるというのであるから、系統的な話をきき憶えて自己の体験として供述するということは殆んどあり得ない。(三)被告人の記銘力テストの成績の悪いことは原判決指摘のとおりであるが、テストは被告人にとっては多かれ少なかれ抽象的であり、観念的なものであるが、現場の状況は最も印象的で具体的な体験事実であるから、記銘力のよくない被告人が犯行現場の状況をよく記憶していたとしても敢て異とするに当らないのであり、却って被告人が短期間に捜査官の問から現場の状況をこまかに憶え込むことこそ困難であると思われるのである。(四)被告人のナイフの事後処理についての供述の変遷は原判決指摘のとおりであるが、当初被告人が、そのナイフは母親に取りあげられたといって居ることは特に注目を要する点であり、家宅捜索によっても、母親小林あさ子に聴取しても遂に発見し得なかったことが窺われるところ、この点について被告人が隠し立てをして居るとも認められないから母親に取り上げられたことが真相であろうと推測されるところである。そこで、ナイフの行先を鋭意探究していた捜査官より再三に亘り取調べを受けた被告人はその返答に窮して供述を変えたとも推測されるのであるから、ナイフに関する供述の変遷は捜査の経過からみて極めて自然なことと思われるのである。(五)原判決が最も大きな疑問とする犯行現場の履物痕に関する判断が誤りであることは既に詳述したとおりである。これを要するに、原判決は被告人の自白の信憑性に関する判断を誤り重大な事実の誤認をして居る、というのである。
よって案ずるに原審において取調べた被告人の供述調書を閲読するに、その記載内容は所謂自白調書であり、犯行について逐一自供して居ることとなっているのであるから、普通ならばその任意性も信憑性も充分に認められるところである。しかるところ、被告人は重症痴愚程度の精神薄弱者であり、知能指数三二乃至三七、知能年令五歳乃至六歳程度に該当し、諒解判断は極めて悪く、談話は渋滞し低声で詞語失格を呈しまとまりが悪く、概念構成、記銘、計算、読字、書字等不良で、季節や時間の観念がないという異常者であるから、その自白の任意性、信憑性については慎重なる検討を要するところである。原判決は「当公判廷へ顕出された検事の取調状況を収録した録音テープを聞くに、被告人の供述はまさに任意の供述そのものであって、証拠として提出されている被告人の全自白調書はいづれも任意の供述を録取したものと認めるのが相当である」とし乍らも、初期の取調において「取調官から次から次へと繰り返し犯罪事実を内容とする問が発せられたであろうことは想像に難くない。そとすうれば、被告人が実際に捜査官の問から犯罪事実を憶えたか否かは暫くおくとして、この間に少くとも犯罪事実を憶えこむ機会はあったとみるのが相当である。」とし、被告人が竹山医師の面前において自白したことを、捜査官が繰り返し供述を求め、被告人が繰り返し応答した後になされたものであることから疑問を差し挾んでいるのであるが、若し、被告人が自ら体験しない事実であるのに捜査官が繰り返し問を発し、被告人がそれに応答した為に自ら体験したものと憶えこんで供述したものであるとすれば、その供述には信憑性は勿論任意性すら否定されるものといわなければならない。蓋し、供述の任意性ということは体験を体験として記銘したことが前提とせられるのであって、故らな虚偽でなく、虚偽を真実と思い込まされた場合の供述は、その思い込まされたことが強制によると、その者の能力的欠陥によるとによって差異を設けるべきではないからである。然るに本件においては被告人は前記の如く知能は低く、竹山鑑定によれば、被告人は当時において、「重症痴愚程度の精神薄弱のために道徳意識が未熟であり、正当な弁別、抑止の能力を期待することは甚だ困難な程度であったと推定される」のであり、前記録音テープ並びに実演フィルムによれば、被告人は自己の行為の犯罪性について意識するところはなく、自己を防衛することを知らぬ様な態度と認められるので、被告人が犯人であっとしても、刑法上心神喪失或いは心神耗弱者としてその刑責は減免さるべきものの如くであるから、その供述の任意性を認めるには少しの疑いをも容れない程に明確でなければならぬというべきである。従って、原判決が被告人の自白調書の任意性について、疑いを差し挾む余地は存しないとした点について一沫の不安を禁じ得ないが、それは暫くおき、その信憑性について検討するに、原判決が、その疑ありとして説示するところは、現場の痕跡に関する部分を除き大体において肯認し得るところであるが、更らにその自白調書を閲読して次の諸点について疑いが生ずるのである。即ち、(一)被告人は金銭を窃取する目的であったと供述して居るが、金銭を必要とした事由、窃取の犯意を生じた時点について何等述べていないのであるが、物色中に被害者が帰った為逃げようとしたといい乍ら、被害者を殺害した後で更らに物色する程の執念を抱いていたことについて納得する事情が説明されていないのである。(二)スダレを盗む気で取り外したというのであるが、被害者を殺害後は悠々と物色して立去ったというのに、スダレを持ち去らなかった(従って何物をも盗まなかった)ことについて、どうした気持の変化であるかが供述されていない(この点について、録音テープでは幾分ふれてはいるが、これとてもその意をただしてはいない)。(三)被告人は、スダレの所から家の中をのぞいた後玄関から入り、下駄をぬいで部屋に上り物色中被害者が帰ったので逃げようとして玄関に出て下駄をはいたというが、一〇月八日付警察員調書では、おばさんに手を掴まれて下駄のまま板の間に引上げられた、一〇月一〇日付同上調書では、手を掴んで外まで引張り出されそうになった、一〇月一二日付同上調書では、おばさんが泥棒というので泥棒でないというと馬鹿野郎といって左手を掴んで引張ったので片足が板の間にのった、一〇月一八日付同上調書では、玄関に出て逃げようとするとおばさんは左手を引張りほっぺたを殴った、一〇月二四日付同上調書では、入るとき下駄は玄関の右隅でぬいだ、出るとき下駄をはきかけたら手を引張られたので下駄をはかないで板の間に足を片方かけた、一〇月一四日付検察官調書では、玄関に出て下駄をはいて逃げようとするとおばさんに左の手を掴んで引張られたので、片方の足が板の間に上った、一〇月二〇日付同上調書では、玄関から帰ろうとするとおばさんは手を握って殴った、一一月二八日付同上調書では、おばさんは左手を掴んで離してくれない、謝ったけど許してくれない、と述べて居るのであるが、被告人は玄関に下りて両足共下駄をはいたかどうか、被害者に引張られて下駄をぬいだかどうか、被害者を刺すときには被告人は玄関にいたのか(板の間に上っていたのか実演フィルムでは右足だけを板の間に上げている)、被害者は終始被告人の手を掴んでいたのか、被告人も被害者の手か体を掴んだのかどうか等について供述がないが、これは現場の模様、被害者の創傷との関係で極めて重要であり、殊に検事は足跡を重視し、痕跡(9)を被告人の下駄痕と主張するのであるから、被告人が下駄のまま何処まで入ったかということは極めて重点であったといわなければならない。(四)被告人は被害者を刺したときの様子について、一〇月八日付警察員調書では、掴まれた片手を振り切ってズボンの後のポケットからナイフを出しておばさんの胸の辺を三回位刺したら板の間に倒れた、一〇月一〇日付同上調書では、ナイフを出して胸の凹んだところ、オッパイのそばを三回位突いたら外の地面、板の間の所に倒れた、一〇月一二日付同上調書では、左手を掴まれたので右手でポケットのナイフを出して口にくわえて刃を出して胸を三回位刺すと板の間に倒れた、一〇月一八日付同上調書では、ナイフを出してオッパイの所を三回位刺すとおばさんは板の間で暴れた、一〇月一四日付検察官調書では、ズボンのポケットからナイフを出し、口にくわえて刃を出して右手でオッパイのそばを三回位刺したら倒れた、と供述して居るが、被害者の解剖所見に徴すれば疑問があり、胸部以外の創傷について少しもふれるところがなく、ナイフを出して口にくわえて刃を出して刺すという行動の際被害者は妨害もしないでいたのか、被害者がその前に被告人の頬を殴ったという行動との関連において解し難いところである。(五)被害者が倒れた後のことについて、被告人は、一〇月一二日付警察員調書では、血はおばさんの着物に少し出ただけで手にも少しついた、一〇月一四日付検察官調書では、オッパイの所から血が出た、手にもナイフにも血が少しついた、と供述して居るが、被害者の出血についての認識は如何なものであろうか。原判決はその惨状を「血の海の中に一見して死亡していると認められる状態で倒れている」と表現しているが、現場写真によると正しくその表現の通りである。被告人は被害者を刺した後、台所で水道の道を飲んでから六畳間へ入り物色したというが、被害者を刺すときに下駄は玄関にあったのかどうか、裸足のままで玄関に下りたことはないのか、水を飲んでから六畳間に行く時に被害者の状態殊に出血の模様はどうであったか、物色を終って玄関から逃走したというが、どのような経路であったか、その時の被害者の状態殊に血液飛散の状況はどうであったか、被告人の足裏や下駄に血液が附着しなかったかどうか(渡辺鑑定によれば被告人の下駄の鼻紐に肉眼的に判別出来ない程度の予備検査陽性部があるが人血と判定出来ないとある)等の点について何等ふれていない(録音テープ並びに実演フィルムにもない)のであるが、重要な点であるだけに奇異にすら感じられるのである。(六)上野第一鑑定書によれば「前頸部乃至右側頸部及び胸部の諸創(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ヌ)(ル)(ヲ)では刃の向きが何れも右に向っている形で刺されたものであり、後頸部の(ト)(チ)(リ)の三個では刃が左に向った形で刺されたものである。」とあり、上野第二鑑定書によれば「頸部及び胸部の(ハ)(ヌ)(ル)(ヲ)四創は刺入口は何れも左創角が鈍となっており兇器の刃の向きが右、右頸部(ニ)(ホ)(ヘ)三創は刺入口は前乃至上創角が鈍となっており兇器の刃の向きが後乃至下とみられ、(ハ)創の刺入方向は下方右胸腔内に向っている。これ等の諸点並びに血液飛洙流出状況の項で説明した如く、本屍が受傷時立位乃至は膝立位にあったと推定されることを綜合考察すると、加害者が兇器の柄を把握するに際し、刃部が拇指側にある握り方よりも、小指側にある握り方で、加害者が被害者の前方から右後方に亘る範囲に位置しつつ刺すことが最も容易と思われる。更に後頸部(ト)(チ)(リ)は刃の向きが右で、右頸部(ニ)(ホ)創とは反対方向となっている。この中間に位する(ヘ)創の刃は下向きである所をみると、加害者が刺しているうちに被害者との位置的関係が移動するに従って加害者の兇器を把握する手が所謂逆手になっていたと考えることができる。加害者が右手に兇器を把握し、左手を以って被害者の右上肢を握り、被害者を引きつけつつ刺すような場合を想定する時に犯行時の相互の位置的関係と創傷の位置方向等を最もよく理解することができると思われる。」とあるが、被告人は昭和三〇年一〇月二四日付警察員調書において、ナイフで被害者を刺したときの持方について指示し、ナイフの刃を左にして、起すとき持ったところを掌にあてたとして所謂逆手に握った恰好をしているのである(写真添付記録第五冊第八丁実演フイルムでも同様の動作をしている)。しかるところ、被告人の身長と被害者の身長の差、両者の位置関係により、創傷と兇器の持方がどうなるのであるか、被告人は被害者の身体を掴んだとは述べていないし、被害者が初めての受傷後柱にもたれかかっていた際にも加害が続けられたかどうか等核心にふれると思われる点について何等述べられていないのである。以上記述した疑問点は、犯人を特定する上に極めて重視すべき事柄であり、捜査官とすれば常識的にも気付く点であろうと思われるところであるから、その点についての発問も応答もないということは如何なることと解すべきであろうか。而して、右諸点はいづれも現場に存する事態からは推察し難く、被告人の自供を待ってのみ明らかとなし得ることであるが、被告人の自白調書によって明らかとされていることは殆んどが現場の事態から知り得るか推知し得ることであることに徴すれば、原判決が疑問として「捜査官の繰り返し発問による記銘」ということを問題とせざるを得ないのである。原判決がナイフの所在に関する被告人の自供の変化を軽々に看過できないとしたことに対し、検事は「ナイフの行先を鋭意探究していた当時の捜査官としては、その点につき再三被告人を問いただして取調べたであろうことが推察される。被告人としては、その点を重ねて尋ねられると結局返答に窮して供述を変えたものと推測される。」と主張するのである。被告人は、一〇月六日付警察員調書では、人の庭に入ることは悪いことだからもう入らない、勘弁して下さいといって居るが、一〇月一〇日付同上調書では、自動車が沢山来た時には見に行かなかった、捕まるからといい、一〇月一八日付同上調書では、人を殺すことは悪いことだ、殴らなければ刺さなかったといい、一〇月二四日付同上調書では、その時は一人で行った、一緒に行ったらやらないといい、一〇月二五日付同上調書では、おばさんが殴らなければ刺さなかった、逃げればよかった、謝っても勘弁しないから刺したといい、一〇月二〇日付検察官調書では、おばさんが殴ったりしなければ人殺しなんかしない、おばさんも悪いんだ、といい、一一月二八日付同上調書では、おばさんが離してくれないから捕っては困ると思った、それで刺した、刺しちゃ死んぢゃうね、死んだよといって居るが、これらも追及によって色々と述べてみたのではあるまいか。当裁判所が、前記の如く疑問であるとした諸点について被告人の供述記載がないということは、捜査官に客観的事態に基づく追及のすべがない為に何等の応答がないままとなったとも思われる。そうだとすれば、被告人にはその点について記銘された事実がなかったということとなるのではあるまいか。而して、被告人は実演フィルムにおいて屋内物色を他人ごとの如く興味深げに演じているが、若しそれが体験事実であるとすれば、その前後殊に兇行についての詳細な記憶がないということは納得し難いのであって、右屋内物色の記銘についても疑いを差し挾さまざるを得ないのである。被告人の一〇月六日付司法警察員調書には、椎の実を拾って坂を降りて来たら腹の大きいおばさんにぶっつかったのでごめんなさいといって塀を越えて帰ったとあり、一〇月七日付検察官調書には、庭の中で腹の大きい女の人に会った、いくつかというので二〇才といった、それから椎の実をポケットに一パイ取って帰った、とあるが、そのような供述があったとすれば、その供述を敷衍して事こまかく事情をきいて居れば、その後の供述の方向は別なものとなったのではないかとの疑いは払拭し得ないところである。
従って、原判決が被告人の自白の信憑性について深い疑いを抱いたことは正当であって、所論の如くその判断を誤り事実を誤認したものとは認められない。
刑事訴訟法第三一九条第二項には、被告人は公判廷における自白であると否とを問わずその自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には有罪とされない、とあるから自白に信憑性がある場合にもこれを補強する証拠を要することとなるのであるが、本件においては被告人の自白の信憑性について多くの疑問が存するのであるから、極めて高度の補強証拠換言すれば被告人の自白なくしても犯罪を認むるに差支ないと思われる程度の補強証拠の存在を要するものと解すべきである。
よって、被告人の自供を除いて他に被告人を犯人と疑わしめる資料が存するかどうかについて検討するに、原判決が「第二、四、(二)被告人の身辺に存在した証拠で被告人と犯人との結び付に関連するものについて」の項において詳細に説示して居るところは当裁判所の判断するところと結論を同じくするのである。即ち、被告人方にあった国防色様鼠色ズボンと白ワイシャツについて原判決は極めて詳細に検討し、それを当日被告人が着用していたかどうか、その附着血痕が被害者のものであるかどうかについて確証を得られないとするのであるが、当裁判所も仔細に検討した結果同一の結論に到達したのである。而して、右衣類の提出に関して被告人の母小林朝子が不明朗な態度をしたというのであるが、痴愚な子をもつ親としては何事につけても思い過ごしの心配をするであろうことは容易に了解出来るところであり、被告人が時々遊びに行って居る細川邸内で殺人事件があったことを知った小林朝子が、他の子供等と異なり、身体的には成人並となって居る被告人に疑いのかかることを慮かり、その衣類を隠くし、或いは持ち遊んでいたナイフを匿したことがあったとしても、親の情として諒し得るところであって、このことからして被告人の犯行を推測することは相当ではない。又被告人は不用意に犯行をなしたというのであるから現場には多くの指紋も足痕或いは履物痕も存したと思われるが、被告人のそれと認むべきものは一として存しなかったのである。殊に被告人は被害者を殺害した後屋内を物色し、玄関より逃走したというのであるから、現場写真に認められる如く板の間に夥だしい血液の流出や飛沫があり、玄関のタタキにも飛沫が存するから、その中に被告人の足跡か下駄の跡が存在すべきものと思われるのに、これ又その一個すら存しないというのである(赤石英の昭和三六年六月二八日付鑑定書によれば、被告人は偏平足でかなり大型の足であるが、現場なる屋内の板の間に見られる素足痕の中にはそれに該当するものは認められない)。次に証人藤野良作が本件兇行当日午前一一時頃細川邸のトタン塀から直ぐ下の石垣の上に飛び降りて坂道へ下りて石段を降って行った男は被告人に似ているとの証言は注目すべきことではあるが、これとても他の証拠と相俟って被告人を疑うべき資料となるに止まるものであって、補強証拠としても充分とはいい得ないのである。
叙上の如くであって、被告人を犯人と疑わしめる若干の証拠は存するが、被告人を犯人であると断定し得る程のものは存しないのであるから、本件公訴事実はその証明がないことに帰し、原判決が履物痕についての判断を誤ったことは判決に影響を及ぼさないこととなるのであって、控訴はその理由がない。
よって、刑事訴訟法第三九六条により本件控除を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長判事 久永正勝 判事 津田正良 判事 四ツ谷巌)